第7回 鷲田清一(その1)

■著者紹介

 1949年京都生まれ。1972年に京都大学文学部哲学科卒業後、関西大学教授、大阪大学教授、大阪大学総長などを歴任。大阪大学名誉教授、大谷大学客員教授、せんだいメディアテーク館長。専門分野である哲学・倫理学の視点からアート、ファッション、教育、労働、ケアなど様々な分野において、数多くの評論・執筆活動を行っている。


■なぜ、入試に出るのか?

 これから2回にわたって、鷲田清一氏について取り上げます。
 ご存じのとおり、鷲田氏は、2016年度入試小論文で最も採用された著者です。また、この3年間を見ても、ダントツの1位です。では、鷲田氏の文章が、なぜこれほど入試小論文に採用されるのでしょうか。

 平成28年3月に文部科学省の高大接続システム改革会議が公表した「最終報告」では、子どもたちが身につけるべき力として、「学力の3要素」を強調しています。

  ①十分な知識・技能

②それらを基盤にして答えが一つに定まらない問題に自ら解を見いだしていく思考力・判断力・表現力等の能力

  ③これらのもとになる主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度

 これは、これまでの「基礎知識」に加え、「思考力・判断力・表現力」等を主とする「問題解決型」の能力が重要視されるということを意味しています。これまでの「基礎知識」は、分からないことを何とか分かろうとすることであり、一つの答えが導き出せるものでした。しかし、グローバル化し、ITの急速な発展に伴い、著しく変化する社会での課題には、答えが一つに定まらない、また場合によっては答えがないことさえあります。つまり、柔軟な思考で課題に対応し、自らの発想で意欲的に道を切り開いていく力と、多様な人々と協働して学ぶ態度が必要となっているのです。

 鷲田氏の著書『わかりやすいはわかりにくい?』(ちくま新書、2010)の表紙には次のように書かれています。

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「生きていくうえでほんとうに大事なことには、たいてい答えがない。たとえば〈わたし〉とはだれかということ、ひとを翻弄する愛と憎しみの理由、そして生きることの意味。答えではなくて、問うことそれじたいのうちに問いの意味のほとんどがある。」…………………………………………………………………………………………………………

 つまり、鷲田氏の文章には、今最も重要視されながら、若者が不得意とする「考える」こと、「問う」ことの重要性が述べられているのです。答えが複数ある、または答えがないかもしれない課題に対して、わたしたちは考え続けなければいけないのです。しかし、答えや処方箋が書かれているわけではありません。考えるヒントとなる自分の考えを与えながら、「自分で考え、自分なりの答えを持つことが重要なんだよ」と言っているようです。これはまさしく、今求められている問題解決型の能力を育むものです。このことが、鷲田氏の文章が入試小論文に頻出する理由の一つだと思います。

 もう一つの理由は、『しんがりの思想 反リーダーシップ論』のあとがきにもありますが、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故以降、鷲田氏の文章に、時評的なもの――復興事業、科学技術施策、教育、報道、市民性や公共性の概念、地域社会の課題といったテーマ――の占める割合が増えたからだと思います。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から、われわれは何を学び、この教訓をどのようにいかしていくのかという喫緊の課題と、その一番根本にある、われわれのあるべき姿についての警鐘が書かれているからです。さらには、内田樹氏の文章が入試小論文から大幅に減少していることの補完として、鷲田氏の文章が採用されているのではないかと思います。鷲田氏も内田氏も、同じような立場での言動をしていますが、最近、特に内田氏は政権批判ともとれるような言動をするようになり、過激な発言も増えたからではないかと推測しています。

 さて、考えるためには、そのベースになるモノサシ、つまり、判断基準が大切になってきます。鷲田氏は、さまざまな著作で述べられていますが、「価値の遠近法」と名付け、次の4つを上げています。

①絶対に手放しては(なくては)ならないもの

②あればよいけどなくてもよいもの

③端的になくてもよいもの

④絶対にあってはならないもの

 鷲田氏は、絶対にあってはならないものがある状態や作られようとする状態、逆に絶対になくてはならないものがない状態やなくなろうとする状態に違和感を持ち、そして危機感を持つ中で、それでいいのだろうかと私たちに警鐘を鳴らしているのです。繰り返しますが、鷲田氏にとって重要なのは、答えではなく、問うこと、考えること、そして考えるプロセスなのです。私たちに違和感をそのままにせず、考える続けることの重要性を説いているのです。私たちは、自分自身なりの価値を判断する基準を作り、優先順位を決め、そして行動する必要があるのです。

■鷲田清一のここを読め

 まず、鷲田氏の頻出著作である『しんがりの思想 反リーダーシップ論』(角川新書・2015)の中から、いくつかの論考について説明したいと思います。『しんがりの思想』は、2018年度入試での最頻出著作になると予想しています。ぜひ、読まれることをお薦めします。

『しんがりの思想 反リーダーシップ論』

 この本の帯には、「強いリーダーなんかいらない!今ほんとうに必要なのは、登山でしんがりを務めるようなフォロワーシップ精神にあふれた人びとである。人口減少と高齢化社会という日本の課題に立ち向かうための、市民としての心もちについて考えた一冊。」とあります。つまり、この本はリーダーシップについて書かれていると同時に、「市民としての心もち」について述べられたものと考えられます。

 はじめに、大きな柱の一つである、「サービス社会の行き過ぎによる市民性の衰弱」ということについて考えていきたいと思います。

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日本社会は明治以降、近代化の過程で、行政、医療、福祉、教育、流通など地域社会における相互支援の活動を、国家や企業が公共的なサービスとして引き取り、市民はそのサービスを税金やサービス料と引き換えに消費するという仕組みに変えていった。一歩先に近代化に取り組んでいた西欧諸国が、そうした相互支援の活動を、教区など、行政機構と個人のあいだにあるいわゆる中間集団の活動にあるていど残しておいたのとは対照的に。(中略)が、それと並行して進行したのが、市民たちの相互支援のネットワークが張られる場たるコミュニティ、たとえば町内、氏子・檀家、組合、会社などによる福祉・構成活動の先細りである。ひとびとは、提供されるサービス・システムにぶら下がるばかりで、じぶんたちで力を合わせてそれを担う力量を急速に失っていった。いいかえると、それらのサービス・システムが劣化したり機能停止したときに、対案も出せねば課題そのものを引き取ることもできずに、クレームをつけるだけの、そういう受動的で無力な存在に、いつしかなってしまっていた。公共機関への「おまかせ」の構造である。

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 私たちが生きていくためにどうしてもしなければならないことがあります。食材の調達、排泄物の処理、病や傷の手当て、出産、看護や介護、埋葬等、以前なら、地域コミュニティによってまかなわれてきた「いのちの世話」です。しかし、それを国家の養成した専門家に委託し、その代わりに税金やサービス料を払う仕組みが築かれたために、市民は「いのちの世話」を自力でする能力を失ってしまいました。それと同時に、相互支援のネットワークであるコミュニティ、つまり、町内、氏子・檀家、組合、会社の活動が先細りしていきました。そのため、行政サービスが劣化したり、その機能が停止したりすると、自分ではどうすることもできず、クレームをつけるだけの受動的で、無力な存在になってしまっているのです。本来は、問題を指摘し、対案を提示したり、場合によっては対応を肩代わりすべきなのにもかかわらず、まさしく、「おまかせ」の状態です。

 例えば、教育現場で何か事件が起こると、すぐに「早急にスクールカウンセラーにお願いしなければならない」という対応が報道されます。「専門家に委託して、自分たちは何もしない」という「おまかせ」の状態に、違和感を感じるのは私だけでしょうか。確かに、専門家の第三者的視野を導入して、対応策を考えることは重要です。しかし、これは、対処療法であり、解決策ではありません。カウンセラーは教育者ではないのです。学校の状況を一番わかっているのは、他でもないそこに勤めている先生方です。まずは、自分たちがしてきたこと、できなかったことを検証し、これから自分たちに何ができるか、しなければいけないのかを考えるべきなのです。そうすることによって、問題を解決する道が開け、さらには、自分たちの教育力が向上していくのです。

 鷲田氏は、市民のあり方について、「各人が、あの『押しつけ』と『おまかせ』という“安楽“のむさぼりとその惰性を超えて、地域社会の運営に関与してゆく『当時者性』をどのように取り戻してゆくか」と述べたうえで、次のように提言しています。

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個々の市民が、行政や企業から提供される流通、医療、教育、福祉などのサービスの「顧客」ないし「消費者」に甘んじたままでいるのではなく、また直面している社会課題の解決を専門家にそっくりまかせるのでもなく、他の市民とともに社会運営の一部を分かち持つ市民性(シティズンシップ)の力量を形成すること、これが今政治に、そして「市民」としての私たち一人ひとりに求められているものであろう。

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 次に、「しんがりの思想」と「フォロワーシップ」について見ていきます。
 グローバル経済が急激に進行し、また、経済不況が長期化する中で、社会がいやでも縮小(ダウンサイジング)していく時代、つまり、「右肩下がりの時代」を迎えています。その中で、市民は決定と責任を人に任せてしまうようになり、リーダーに何もかも任せてしまおうとして、「強いリーダー」の登場を待望するようになっています。しかし、引っ張っていくタイプのリーダーは、「右肩上がり」の時代にしか通用しないリーダー像であり、ダウンサイジングしていく時代に求められるのは、「しんがり」のマインドを持ったリーダーだと鷲田氏は言います。

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社会がいやでも縮小していく時代、「廃」炉とか「ダウン」サイジングなどが課題として立ってくるところでは、戦闘で道を切り開いていくひとよりも、むしろ最後尾でみんなの安否を確認しつつ進む登山グループの「しんがり」のような存在、退却戦で敵のいちばん近くにいて、味方の安全を確認してから最後に引き上げるような「しんがり」の判断が、最も重要になってくる。(中略)こういう全体の気遣いこそほんとうのプロフェッショナルが備えていなければならないものなのであり、またよきフォロワーシップの心得というべきものである。そしてこうした心得を、ここで《しんがりの思想》と呼んでみたい。

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 要は、「しんがり」だけが隊列の全体を見ることができるのです。みんなの状況を把握しながら、全体を気遣うことができるのです。そういうリーダーシップが必要になってきています。しかし、地域社会には、企業や政治の世界と違って、専従のリーダーがいません。そこで重要になってくるのが、賢いフォロワーシップという考えなのです。

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日々それぞれの持ち場でおのれの務めを果たしながら、公共的な課題が持ち上がれば誰もがときにリーダーに推され、ときにメンバーの一員、そうワン・オブ・ゼムになって行動する、つまり、普段はリーダーに推されたひとの脚を引っ張ることもなく、よほどのことがないかぎり従順に行動するが、場合によっては主役の交代もできる、そういう可塑性(しなり)のある集団であろう。リーダーに、そしてシステムに全部をあずけず、しかし全部を自分がまるごと引き受けるのでもなく、いつも全体の気遣いをできるところで責任を担う、そんな伸縮可能なかかわり方――「上意下達」「指示待ち」の対極である――で維持されてゆく集団であろう。とすれば、この領域でリーダーシップ以上に重要なのは、よきフォロワーシップとでもいうべきものだということになる。

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 つまり、「公共的なことがらに関して、観客になるのではなくみずから問題解決のためのネットワークを組んでいく能力、それが、リーダーに見落としがないかケアしつつ付き添ってゆくという意味でのフォロワーシップ」を持つことが重要なのです。組織というのは、人の集まりです。一人ひとりが受け身で指示を待つのではなく、それぞれが自分の役割を全力でしかも自主的に発揮するとき、その集団は最大のパフォーマンスを見せます。しかし、わたしたちは、「押しつけ」と「おまかせ」の構造の中で、このことを忘れています。要は、リーダーが備えておくべき全体を気遣うという態度を、フォロワーのほうが備えていなければならないということです。そして、リーダーに何かあったときには、フォロワーのほうがいつでも交替できる準備をしておく必要があるのです。ひとには逃げてはならない状況が必ずあります。そのときにきちんとその責任を果たすことができるのかということに、われわれが市民性を取り戻す鍵があるのです。

 鷲田氏は、梅棹忠夫氏の言葉を引用しつつ、このように結んでいます。

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リーダーになろうと心がけるより先に、まずは賢いフォロワーになれるように心がけておくこと。だが、いざ担がれたときは限られた期間であれ、引き受けられる準備をしておくこと。そのことを、亡くなる直前の梅棹忠夫はこんな言葉に約(つづ)めて語っていた――。
「請われれば――差し舞える人物になれ」

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 次回は、『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』(ちくま新書2010)について、考えていきたいと思います。

■入試での出題例

1.名寄市立大学健康福祉学部(2016年度・一般入試)

【課題文の内容】出典:しんがりの思想 反リーダーシップ論』(角川新書・2015)


 この国は本気で「退却戦」を考えなければならない時代に入りつつあり、“引っ張っていく”リーダーではなく、「しんがり」のマインドを持ったリーダーが必要とされている。「しんがり」とは、合戦で退却を余儀なくされたとき隊列の最後部を務める部隊、あるいは、登山のパーティで最後尾を務めるひとのことである。要は、「しんがり」だけが隊列の全体や、パーティの全員後ろ姿を見ることができるのである。右肩下がりの時代、ダウンサイジングなどが課題となるところでは、先頭で道を切り開いてゆくひとよりも、最後尾でみなの安否を確認しつつ進むような「しんがり」の存在、そして仲間の安全を確認してから最後に引き上げる「しんがり」の判断がもっとも重要となってくる。全体のケア、各所への気遣いとそこでの周到な判断こそ、リーダーが備えていなければならないマインドなのである。
 パナソニックの松下幸之助は、リーダーに備わっていなければならない条件として、「愛嬌」「運が強そうなこと」「後ろ姿」の三つをあげた。まず「愛嬌」のあるひとにはスキがある。無鉄砲に突っ走って、まわりをはらはらさせ、「わたしがしっかり見守っていないと」という思いにさせる。次に「運の強そうなこと」。「運の強いこと」ではない。「運の強そうな」ひとのそばにいると、何でもうまくいきそうな気になる。その溌剌とした晴れやかな空気に乗せられて、「一丁やってみるか」と挑戦したりする。最後は「後ろ姿」。「後ろ姿」が眼に焼きつくときには、見つめているほうの心に静かな波紋が起こっている。寡黙な言葉の背後に秘められたある思いに想像力が膨らむ。そう、見る人を受け身ではなく、能動的にするのである。無防備なところ、緩んだところ、それに余韻があって、そこへと他人の関心を引き寄せてしまうからだ。
 軸がぶれない、統率力がある、聴く耳をもっているなどといった心得も大事ではあるが、この隙間、この緩み、この翳りこそ、ひとの関心を誘いだすものである。組織は、一人ひとりが受け身で指示を待つのではなく、それぞれの能力を全開にして動くときに、もっとも活力と緊張感に溢れる。

●設問

 リーダーに求められるものについて、あなたの考えを800字以上1000字以内で述べなさい。

〈解説〉

 一般的に、リーダーには、強力な指導力を発揮して、皆をぐいぐい引っ張っていくというイメージがある。まさに、リーダーシップとはそういうものだと解釈されている。つまり、はっきりとしたヴィジョンと方向性を持ち、それを実現するためのタクティクス(戦略)を示し、組織を目標達成に向けて一丸となって取り組ませる、そういう指導力や統率力を示すのがリーダーだというものである。しかし、鷲田氏は、右肩下がりの時代で、ダウンサイジングが課題となるような場面では、こういうリーダーではなく、全体のケア、各所への気遣いとそこでの周到な判断といった「しんがり」のマインドを持ったリーダーが重要だと言っている。また、「組織は、一人ひとりが受け身で指示を待つのではなく、それぞれの能力を全開にして動くときに、もっとも活力と緊張感に溢れる」とも言う。
 鷲田氏の示すリーダーの持つべきマインドを踏まえ、一人ひとりが受け身で指示を待つのではなく、それぞれの能力を全開にして動くような組織を作るために、リーダーが備えていなければならないマインドについて述べるとよいだろう。800字以上1000字以内ということなので、自分自身のリーダーの経験や、それがなければ身近にいるリーダーの具体例を挙げながら、自分の意見を書くようにしよう。

■読んでおきたい本

『しんがりの思想 反リーダーシップ論』角川新書、2015

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