第9回 森博嗣

■著者紹介

 1957年愛知県生まれ。小説家、工学博士。名古屋大学工学部建築学科、同大学大学院の修士課程修了。国立大学の工学部助教授の傍ら、1996年『すべてがFになる』(講談社文庫)で第1回メフィスト賞を受賞。以後、多くの作品を執筆中。

 今回は、森博嗣氏について考えていきます。

 森氏は、国立大学工学部の助教授(現在の准教授)でありながら小説家となったために、「理系作家」などと呼ばれています。森氏は自身のことについて、「僕は、大学では工学部の建築学科に所属し、その中でも科学により近い分野(材料力学や流体力学)が専門だった。そんな職場にいたのに、15年ほど前に僕は突然小説を書いた(もちろん、帰宅後に書いたのだが)。それを出版社に送ったら、これがたちまち本になり、小説家と呼ばれるようになってしまった。以後、研究者と小説家を10年ほど両立させてきたけれど、今は研究者も小説家もどちらも一線を退いている。隠居に近い立場になったのは、47歳の時だ。」(『科学的とはどういう意味か』幻冬舎新書2011)と述べています。森氏が小説を書くようになったきっかけは子供のころからの夢の実現のために、資金が必要だと考えたからです。森氏のホームページである「森博嗣の浮遊工作室」では、次のように書かれています。(このサイトは、森氏の「仮想秘書」が書いています。)

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 鉄道模型歴はそれよりずっと長く、ナロー(狭軌鉄道のこと)志向で、電気機関車も蒸気機関車も、いずれも小型のプロモーションのものが好み。(中略)2000年の末には5インチの庭園鉄道「欠伸軽便鉄道弁天ヶ丘線」のための土地を購入。一人でこつこつ土木工事をして、2002年には見事開通となった。先述の「小説を書くようになったきっかけ」の主たる理由はここにある。10年ほどまえ、5インチ鉄道模型のエンドレスの線路がどうしても欲しいと思った森先生、敷地を手に入れるためには資金が必要である。「夜でもできるバイト」はないかと考え、小説の執筆を思いつかれたのだ。今でもそのために小説を書かれていると言っても過言ではないそう。(森博嗣の浮遊工作室「about 森」
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 森氏の一番の関心事は、「鉄道模型製作」であり、それを自分の庭で走らせる資金を得るために、バイト感覚で小説を書いたというのです。研究者として危機的とも思えるほどがむしゃらに働いたことが、小説家になっても習慣となり、依頼されるままに集中して書いたのです。小説の仕事について、『暗闇・キッス・それだけで』(集英社2015)を発刊したときのインタビューで「1時間に6000文字書きます。小説はやや速く、エッセイはやや遅くなりますが、その差は10%以内です。『暗闇・キッス・それだけで』は、16万字ほどなので、約27時間でした。仕事は1日に1時間以内と制限していますが、執筆時には、ついつい20分ほど超えてしまいます。」(http://bookshorts.jp/morihiroshi/)と語っています。1時間に6000字ということは、1分間に100字ということであり、パソコンで書いているとは言え、ものすごい速さです。
 小説家を引退して、新しい執筆依頼を受けないことにした森氏ですが、それまでの編集者との関係で、1年に10冊程度の新刊を出し続けています。
 森氏の論述は多岐にわたりますが、その中心にある考えは、みんなが「思考停止」に陥っている現状に警鐘を鳴らし、「考えること」の重要性ということです。では、考えるとはどういうことなのでしょう。入試に頻出している「科学・科学的ということ」と「抽象的に考える」という2点から、森氏の考えについてみていきましょう。



■森博嗣のここを読め

「科学・科学的について」

 科学という言葉は、誰もが知っていて、たびたび使うものですが、それをしっかり説明できる人はあまりいないのではないでしょうか。科学というと自然を相手にしたもの、また「技術」という言葉と結びついて、実験や工学的なものをイメージしますが、森氏は、「科学というのは『方法』である。そして、その方法とは、『他者によって再現できる』ことを条件として、組み上げていくシステムのことだ。他者に再現してもらうためには、数を用いた精確なコミュニケーションが重要となる。また、再現の一つの方法として実験がある。ただ、数や実験があるから科学というわけではない。個人ではなく、みんなで築き上げていく、その方法こそが科学そのものといって良い。」(『科学的とはどういう意味か』幻冬舎新書2011)と述べています。つまり、科学とはシステムのことであり、そのプロセスを指すということであり、数字や実験が科学的だというイメージは明らかな勘違いだと言います。また、「他者による再現性」を基にしていることから、「科学というのは民主主義に類似した仕組みで成り立っている。この成り立ちだけを広義に『科学』と呼んでも良いくらいだ」とも述べています。
 では、科学的であるためにはどうしたらいいのでしょうか。森氏は、『科学的とはどういう意味か』の中で、次のように述べています。

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 言葉だけで理解している気にならず、思い込みを極力避ける。そのためには、いつも疑いつづけること。情報を広く求め、吟味したうえでも、きっぱりと割り切るような結論を出さない。そして、常に疑問を持つこと。
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 人間は大人になるにつれ、自分の見たものから「勝手」に決めつけようとします。いろいろと疑問を持ち、考えることをせず、結論を急ぐのです。というのは、効率的であること、できるだけ早く正解を出すこと、つまり、スピードが社会では重要視されるからです。しかも、考えること、疑問を持つことは非常に面倒なことです。しかし、疑問を持つことが、問題発見につながっていくのです。何が問題なのかを知ろうとすることが、ものごとを前進させるのです。
それとは逆に、科学を知らないこと、つまり「科学的無知」の弊害について、次のように述べています。

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 宗教を信じなくても、はっきりいって生活に支障はない。だが、科学を無視していると、それは確実に不利益を招き、危険も大きくなる。気持ちの問題ではなく、もっと現実的、物理的、つまり科学的に「しっぺい返し」を食うだろう。ここがまったく違う。何故なら、現代社会は、古代から中世のように宗教の上に築かれているのではなく、既に完全に科学の上に成り立っているからだ。この認識を現代に生きている人たちは持たなくてはいけない。
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 一人の人間に不利益をもたらしているだけならまだしも、多くの人が非科学的思考をすることが危険を孕んでいるのです。なぜなら、今は、民主主義が基本であり、大衆が方向性を決めるからなのです。大勢の人が非科学的な思考をすれば、環境やエネルギーといったみんなの生活に直轄するような問題について、それが明らかに間違っていたとしても、社会がその方向に向かってしまう可能性があるのです。現代の人間は、流行に流されやすいのです。自分で考えるのが面倒だから、他人の言うことを鵜呑みにして、大勢に流されていくという姿勢に、警鐘を鳴らしているのです。

「抽象的に考える」

 森氏は、「世間一般では、『具体的』がとても良い意味で使われているのだ。それは、ぼんやりとしたものではなく、しっかりと考えたもの、ちゃんと調べたもの、実際に役に立つような現実性を持ったもの、といったイメージだろうか。この反対の『抽象的』とは、曖昧でわかりにくいもの、まだきちんとまとまっていない考え、実現が遠いもの、単なる絵空事、とイメージする人が多く、『抽象的』は『いけないこと』だ、という感覚が広く浸透しているように見受けられる。」(『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』新潮新書・2013)と述べた上で、「抽象的に考えること」の必要性・重要性を説いています。
 抽象とは、具体的な情報を捨てることによって、ものの本質や他のものと共通する概念を把握しようとすることです。森氏は、抽象的思考について、「簡単にいえば、ものごとの本質を摑むことで、見かけのものに惑わされることなく、大事なことはどこにあるのかを探すような思考になる。この場合、大事なことというのは、たとえば、ほかの事例にも役に立つこと、あるいは、細かい雑事を除いた大雑把な傾向のことだ。」と述べ、そのためには、「最初から限定し、決めてかかるのではなく、ぼんやりとした広い視野を持って、『使えそうなもの』『問題を解決しそうなもの』を見つけること」が重要だと述べています。しかし、「なにか具体的な例を挙げようと思ったのだが、多くの読者は、僕がたまたま挙げた具体的な例に囚われるだろう。その具体例だけを覚えてしまい、逆に抽象的な本質を意識できなくなる。言葉で説明したり、人を納得させるときに、難しいのはまさにこの点なのだ。」と述べているように、大きなジレンマを抱えながら、説明しようとしていることがよくわかります。抽象的をわかりやすく、具体的に説明しようとすればするほど、抽象的から離れてしまうのです。
 それでは、なぜ、抽象的に考える必要があるのでしょうか。「具体的に」というのは、名前を知ることであり、そのためには、覚えることが最優先されます。人は覚えることに満足すると、それ以上考えようとしなくなってしまうのです。「面倒くさいから、理屈よりも結論を」という思考停止状態に陥ってしまうのです。名前を知っていることとそれをわかっていることは同じ意味ではありません。小論文を書くときにも、「抽象から具体へ」「具体から抽象へ」という思考をします。意見は抽象的なものになるのです。それを具体的に説明し、客観視、つまり根拠を示して、意見を支えます。逆に、具体的なものから、その本質を把握して、普遍的な意見を導き出すという行為をするのです。また、仕事の場面でも、抽象的思考のできる人は、会話をしていても、相手の言葉の裏にある、真意を読み取ろうとしますし、また、マニュアルがあったとしても、その文面通りではなく、その元になった精神を汲み取って対応することができるようになります。
 さて、それでは、どうすれば抽象的な思考が身につくのでしょうか。「抽象的思考には、具体的な手法というものは存在しない(そもそも相反している)。日頃から、抽象的にものを見る目を持っていること、そうすることで、自分の頭の中に独自の『型』や『様式』を蓄積すること、そして、それらをいつも眺め、連想し、近いもの、似ているものにリンクを張ること、これらが、素晴らしいアイデアを思いつく可能性を高める、というだけである。したがって、短期的な努力や練習によっても、すぐに『思いつける頭』になれるわけではない。長い時間をかけて、少しずつ自分が変化するしかない。」と述べています。そして、手法ではないが、手法的なもの、手法のようなものなら示せるかもしれないと、次のように述べています。

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・なにげない普通のことを疑う
・なにげない普通のことを少し変えてみる。
・なるほどな、となにかで感じたら、似たような状況がほかにもないか想像する。
・いつも、似ているもの、喩えられるものを連想する。
・ジャンルや目的に拘らず、なるべく創造的なものに触れる機会を持つ。
・できれば、自分でも創作してみる。
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 また、抽象するためには、「想像」が必要だとも述べています。「想像というものは、現実にないもの、見えないもの、経験したことがないもの、今直接には関係ないもの、そういう未知で不在のものを考えることこと」であり、「主観的なもの、具体的なものに囚われていると難しい」行為です。ものごとを抽象的に考えるには、どうしても現実から飛躍すること、つまり「想像」する必要があります。そのためには、「好奇心」といった、異質なものを受け入れる姿勢を大事にしなければならないのです。
 その一方で、教育が抽象的思考を阻害する可能性があると言います。抽象的な思考の障害となるのは、多くの情報の押しつけであり、それが疑問を持たせないようにしているのです。教育とは知識の伝達という、いわば知識の押しつけであり、疑問を持つことよりも、知識をより多く知っていることが評価されます。つまり、学べば学ぶほど、現実の具体的な情報を取り込み、それによって思考の自由度が抑制され、抽象的思考が阻害されてしまうのです。


 最後に、森氏は頭の中に、面白い発想、新しい思いつきが生まれる「庭」を作ることが必要だと言います。『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』を執筆した中で、もっとも価値ある発想だという文章を引用して、この項を終わります。

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 優れた発想とは自然から生まれるものなのだ。思うようにならないのは、人間の頭が作り出した人工の論理から生じるのではなく、人間の頭という自然の中から育ってくるものだからである。したがって、まさにガーデニングや農業と同じで、抽象的思考の畑のようなものを耕し、そこに種を蒔くしかない。発想とは、そうやって収穫するものなのである。
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■入試での出題例

1.長崎県立大学看護栄養学部看護学科(2014年度・推薦入試)

【課題文の内容】出典:『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』(新潮社・2013)

 辞書に「抽象」とは、「事物または表象のある側面・性質を抽き離して把握すること」とある。このとき、大部分の具体的な情報が捨てられる。そうすることで、何が本質かがわかりやすくなったり、別の多数のものにも共通する一般的な概念が構築しやすくなるからだ。抽象化するときに失われた情報は、不要だったわけではなく、一旦棚上げして考えてみよう、という意味だ。情報を捨てて、「ほぼ同じもの」だと仮定すること、この「仮定」こそは、人間の高度な思考の一手法といえるものだ。一度頭に入ったものを「忘れる」ことが簡単ではないが、客観的に考える場合には、自分の経験や知識や立場を忘れる必要があるし、抽象的に考える場合には、表面的なもの、目の前に見えているものに囚われないことが大切である。
 「想像すること」が、人間の思考の大きな特徴である。想像というのは、現実にないもの、経験したことがないもの、今直接には関係のないもの、そういう未知で不在のものを考えることである。これは、主観的なもの、具体的なものに囚われていると難しい。常識が備わってくると、想像力は鳴りを潜めざるをえない。想像したものを自分自身で否定するうちに、だんだん考えないようになる。想像力など働かせなくても生きていけるし、むしろ変なことを考えない方が生きやすい。しかし、物事を客観的に、そして抽象的に考えるには、どうしても現実から飛躍する必要がある。「仮の発想」がなければ、物事を抽象的に捉えられない。また、自分の目ではない視点を持たなければ、客観的な全体像は見えてこない(想像できない)。さらに、現実にない概念を捉えるには、体験したもの、教えられたもの、知っているものに囚われることのない新しい感覚を持っていなければならない。これには、異質なものを受け入れる「好奇心」のような姿勢が大事なファクタになる。

【問1】

「抽象的に考える」にはどのようにしたらよいか、筆者の考えを述べなさい(100字以内)。

〈解説〉

 本文要約と考えられる設問である。「抽象的」の説明ではなく、「抽象的に考える」にはどのようにしたらよいかという問いであることをまず押さえる必要がある。本文中に、「抽象的に考える場合には」とか「抽象的に考えるには」という言葉があるので、それ以下の文章から、大切なこと、しなければならないことをまとめる。

【問2】

「抽象的に考える」ことがなぜ必要なのか。具体例をあげてあなたの考えを述べなさい(400字以内)。

〈解説〉

 抽象的に考えることによって、「何が本質かがわかりやすくなったり、別の多数のものにも共通する一般的な概念が構築しやすくなる」のである。目の前にあることに囚われるあまりに、物事の本質を見失ってしまった経験は誰にも必ずあるはずだ。そのとき、「体験したもの、教えられたもの、知っているものに囚われることのない新しい感覚、つまり、異質なものを受け入れる「好奇心」のような姿勢」が必要だったということを述べ、それを身につけるためには、抽象的に考えることが重要なのだとまとめよう。


2.三重大学医学部看護学科(2016年度・後期日程一般入試)

【課題文の内容】出典:『科学的とはどういう意味か』(幻冬舎・2011)

 普通の人が、科学的であるためには、まずは科学から自分を遠ざけないこと、数字を聞いても耳を塞がず、その数字をイメージしてみること、単位がわからなければ、それを問うこと、第一段階としてはこんな簡単なことで充分だ。さらには、ものごとの判断を少ないデータで行わないこと、観察されたものを吟味すること、勝手に想像して決めつけないことだ。理由もなく直感的な印象だけで判断していないだろうか、と疑ってみたほうがいい。
 「スコットランドの羊」という有名なジョークがある。天文学者と、物理学者と数学者の3人が、スコットランドで鉄道に乗っていたとき、窓から草原にいる1匹の黒い羊が見えた。天文学者が「スコットランドの羊は黒いのか」と呟く。それを聞いて、物理学者が、「スコットランドには少なくとも1匹の黒い羊がいる」と言った。すると、数学者が、「スコットランドには、少なくとも1匹の羊がいて、その羊の少なくとも片面は黒い」と言った。僕なら、ここに子供を1人登場させ、最後に、「あれは本当に羊なの?」と言わせたい。
 人間は大人になると、自分が観察したものから、「勝手に」決めつけようとする。数々の疑問をスキップして、結論へジャンプしてしまうのだ。正解を早く見つけ出すことが、社会で生きていくうえでは重要視されるからだ。しかし、「科学」は、そういった「見切り」のジャンプを原則として許さない。一歩一歩段階を踏み、みんなで確かめながら、あらゆる疑問をぶつけ、それらをことごとく解決しなければ前に進むことはできない。それが科学というものの仕組みであり、そのルールが「科学的」という意味なのだ。科学的であるためには、あらゆるものを疑い、常に「本当にそうなのか?」と自問することが大切である。

【問1】

「スコットランドの羊」のなかに登場させた子供の発言は、3人の科学者の発言とどのような違いがあると筆者が考えているかを100字以内で説明しなさい。

〈解説〉

 本文の部分要約と言える設問である。この話がジョークであることを踏まえ、直後の「このように」以降に書かれている内容を要約したうえで、子供の発言が、科学者よりもずっと「科学的」であることを100字以内でまとめよう。

【問2】

筆者が考えている科学的という意味を本文から汲み取り、それに対するあなたの考えを400字以内で記述しなさい。

〈解説〉

 本文中に、「一歩一歩段階を踏み、みんなで確かめながら、あらゆる疑問をぶつけ、それらをことごとく解決しなければ前に進むことができない。それが科学というものの仕組みであり、そのルールが『科学的』という意味なのだ。」とある。また、「科学的であるためには、あらゆるものを疑い、常に『本当にそうなのか?』と自問することが大切である。」という内容を踏まえて、最初に筆者の考えを手短にまとめよう。
 筆者の考えは、今まで自分の考えていた科学や科学的というものと少し違ったものであるだろう。科学というと、理系の物理や化学といった実験を伴うものを思い浮かべることが多い。しかし、筆者は科学や科学的とは、理系に限ったものではなく、プロセスやシステムを指す言葉であると考えている。何でもかんでも疑っていては、変人と思われてしまうだろうが、ものごとの本質や真実に近づくためには必要な行為である。社会科学や人文科学という言葉があることなどを踏まえ、筆者の意見に賛成する立場で述べるようにしよう。



■読んでおきたい本

『科学的とはどういう意味か』幻冬舎新書、2011

『人間はいろいろな問題についてどう考えていけばいいのか』新潮新書、2013

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