第12回 姜尚中

■著者紹介

 1950年、熊本県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。国際基督教大学助教授・準教授、東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授、聖学院大学学長などを経て、現在東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長兼理事長。専攻は政治学、政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍。『マックス・ウェーバーと近代』『オリエンタリズムの彼方へ』など著者多数。

 今回は、姜尚中氏を取り上げます。

 姜氏は、10代の頃から『私』とはいったい何者であるのか」という問いに悩みました。それは、在日韓国人という自らの出自が大きく関係しています。20歳の時に、父母の国、韓国を初めて訪れ、「私が人生に対して問いかけると言うよりも、人生から私が問いかけられている」と考えるようになったと言います。そして、「私は、自分の出自という、自分の力では如何(いかん)ともしがたい『運命』に眼を向けることで、自分という存在そのものにかかわる実存的な問いに導かれていったわけです。そこから私は『自我』ということについて考えるようになりました。」(『悩む力』集英社新書・2008)と述べています。しかし、「私の志していたのは政治学ですが、この学問はみずからの立脚点が定まらなければ、やはり見るべきものが見えてこないし、語るべきものも語れません。」と自覚しながらも、大学卒業後も大学院に残ったり、ドイツ留学をしたりして、モラトリアムの期間を過ごします。そして、“私とは何者か”“私が存在する意味は何か”という堂々巡りの問いを繰り返した挙げ句に、「自我というものは他者との関係の中でしか成立しないからです。すなわち、人とのつながりの中でしか、『私』というものはありえない」ことに気づいたのです。このような経験の積み重ねによって、「自分はこういう人間だ」という、自分の中に核となる部分ができていったのだと思います。そして、50代の後半になって、悩んだ結果の集大成として『悩む力』を出版したのです。
 人間は、どうしても意味を求めてしまう生き物です。生きる意味、働く意味、人を好きになることの意味等々。実は、この意味というのがさまざまな形で悩みの種になるのです。姜氏の著した『悩む力』の中から、どのようにして悩みを乗り越えていくか、あるいは悩みながらどのように生きていくか等について、考えていきます。

 

■姜尚中のここを読め

「悩む」ことの意味とは

 姜氏は、『悩む力』の執筆動機について、「誰にでも具わっている『悩む力』にこそ、生きる意味への意志が宿っていることを、文豪・夏目漱石と社会学者・マックス・ウェーバーを手がかりに考えてみたい」と述べています。その中で、姜氏は、「悩みや苦悩を集合的に見るならば、そこには時代や社会の環境が大きな影を落としているはず」と述べ、漱石たちの生きた時代と現在を比較し、時代状況や社会現象も似ているととらえています。漱石とウェーバーは約百年前、近代のとば口に立ち、「文明が進むほどに人の孤独感が増し、救われがたくなっていく」ことを示しました。そして、「個人の時代の始まりのとき、時代に乗りながらも、同時に流されず、それぞれの『悩む力』を振り絞って近代という時代が差し出した問題に向きあ」ったのでした。現在、自由化や情報化、グローバリゼーションに伴う変化の中で、個人の痛みは漱石の時代よりも苛烈(かれつ)なものになっているのです。

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 私も長く悩みました。器用ではないので、ずいぶん時間がかかったと思います。子供のときに「自分は社会の中で誰にも承認されていない」という不条理に気づいて以来、遅々とした歩みの中で、少しずつ、人との間に相互承認の関係を作ってきたような気がします。ときには自己矛盾に陥り、投げ出したくなりました。ときには全力で当たっていかないで、ぬらぬらした宙ぶらりん状態に甘んじていたこともありました。他者を認めると、自分が折れることになるような気がして納得できなかったこともあります。しかし、その積み重ねによって、いまの私があると思うのです。他者を承認することは、自分を曲げることではありません。自分が相手を承認して、自分も相手に承認される。そこからもらった力で、私は私として生きていけるようになったと思います。私が私であることの意味が確信できたと思います。そして、私が私として生きていく意味を確信したら、心が開けました。(中略)だから、悩むこと大いにけっこうで、確信できるまで大いに悩んだらいいのです。中途半端にしないで、まじめに悩みぬく。そこに、その人なりの何らかの解答があると私は信じています。
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知性について

 姜氏は知性について、「本来、学識、教養といった要素に加えて、協調性や道徳観といった要素を併せ持った総合的なものを指す」と述べています。情報が洪水のようにあふれている社会において、情報をただ単に、断片的な情報として持っているのではダメなのです。姜氏は、今の「情報技術に通じた若い人たちの中に、変に老けこんだイメージの人がいるように思えてなりません。」と言います。「最初から先行きを予想してやめてしまっている」ようだというのです。これは、ものごとの原因と結果のパターンを情報として蓄えて、「知ってるつもり」になっているのが原因だと述べています。つまり、情報通であることと知性は別物だということです。確かに、博学な人は素晴らしいのですが、自らの血肉となるような情報をどれだけ持っているかが重要なのです。その上で、姜氏はわたしたちがどのような知性を目指すのかについて、二つの方向性があると言います。一つは、「われわれはもう後には戻れない、『何を知るべきなのか』『何をなすべきなのか』『何を好ましいと思うのか』といった事柄がハーモニーを奏でることなどありえないと受け入れたうえで、貪欲(どんよく)に知の最先端を走ってみる」という知のあり方、もう一つは、「現実の肉体や感覚には限界があります。だから、反対に、自分の世界を広げるのではなく、適度な形で限定していく。その場合でも、世界を閉じるのではなく、開きつつ、自分の身の丈に合わせてサイズを限定していく。そして、その世界にあるものについては、ほぼ知悉(ちしつ)できている」というような知のあり方です。そして、前者については、「これは相当の『力業』ですし、『知ってるつもり』だけではすまない、決然とした覚悟が必要でしょう。」と述べ、後者については、「『反科学』ではありませんが、ある意味では『非科学』でもあります。が、そういうあり方があってもよいのではないでしょうか。」と述べ、どちらかといえば、後者のあり方を重要視しています。「身の丈に合わせた知性」の獲得というのは、簡単そうで実は簡単ではないのですが、何を知るべきなのかは、どのような社会が望ましいと思っているかにつながります。断片的な情報の蓄積ではなく、自分が生きていくために必要な知性とは何か、それを身につけるにはどうしたらよいかを、一度きちんと考えておくことが重要です。
 「『知ってるつもり』じゃないか」という論考は、『悩む力』の中でも入試小論文に頻出です。ぜひ一度読んでおくことをお薦めします。

 

何のために「働く」のか

 姜氏は、「『食べるために働く』という言葉があります。人が生存していくには、やはりお金がかかるのであり、お金を得るためには、やはり働かなければなりません。(中略)お金さえあれば働かなくていいような気がします。しかし――と、そこで私は考えるのです。もしお金があったら、人は本当に働くのをやめるでしょうか。案外、そうでもないのではないでしょうか。」と、潤沢にお金があっても、人は仕事を辞めないだろうと考えています。
 そう考えると、人はなぜ働くのでしょうか。姜氏は、それは「『他者からのアテンション』そして『他者へのアテンション』だ」と言います。アテンションとは、「ねぎらいのまなざしを向ける」、ということです。つまり、人が働くということの根底にあるのは、「社会の中で、自分の存在を認められる」ということであり、人は「自分が自分として生きるために働く」のです。たしかに、お金は必要ですし、地位や名誉もないよりあったほうがいいものです。しかし、姜氏は、「他者からのアテンションが欲しい」と言います。これには、「他者と相互に承認しあわない一方的な自我はありえない」という、自我への認識が大きく関係しています。つまり、人間は一人では生きて行けない社会的動物であり、他者の承認を必要とするからなのです。

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 社会というのは、基本的には見知らぬ者同士が集まっている集合体であり、だから、そこで生きるためには、他者から何らかの形で仲間として承認される必要があります。そのための手段が、働くということなのです。働くことによって初めて「そこにいていい」という承認が与えられる。働くことを「社会に出る」と言い、働いている人のことを「社会人」と称しますが、それは、そういう意味なのです。「一人前になる」とはそういう意味なのです。

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 「働くことの意味」ということについては、小論文入試で頻出する課題です。これから、大学で学び、職業に就こうとする若者が、しっかりとした職業観を持ち、人はなぜ働くのかということに対して、自分なりの考えを持っていることが必要なのです。さまざまな著者の論考を参考にして、まとめておくようにしましょう。

 

■入試での出題例

1.天理大学人間学部・文学部・国際学部(2017年度・公募推薦入試)

【課題文の内容】出典:『あなたは誰? 私はここにいる』(2011・集英社新書)

 一人の人間、一つの出来事、一冊の本、そして一枚の絵が、人生に計り知れない影響を与えることがある。わたしの場合、そうした一枚の絵をあげるとすれば、アルブレヒト・デューラーの自画像で、わたしを叩きのめすほどの影響を与えた。場所は、ドイツの国立美術館、アルテ・ピナコテークの一室で、肖像画には間違いないとわかったのだが、縦、横とも50センチか70センチほどで、見過ごしてしまうほどの小ぶりなものだった。しかし、オーラが発散し、仄かな、魅入られるような光を放っているようだった。そのころのわたしは、それまでの自分から、日本から、そして在日から逃れるようにドイツに渡り、留学生活を送っていたが、何かの展望があったわけでもなく、日本に帰ってからの約束されたものも何一つなく、つかの間の「亡命状態」にあった。それは、心地よく、不安であり、そして憂鬱だった。
 その絵は、デューラーがちょうど1500年に描いた《自画像》である。500年近く前の同じ年の男に、「わたしはここにいる、おまえはどこに立っているのだ」と問いかけられているようで、わたしはそれまでの迷妄を打ち砕かれ、粛然とした気持ちにならざるをえなかった。決然とした画家としてのマニフェストである自画像が、同時に憂いと慈しみにあふれたまなざしをしていることにわたしは強く引きつけられた。わたしとほぼ同じ歳で、遺言のように描いた自画像。そこには、彼の見栄も、強烈な自我も、悲しみも、そして俗っぽさも神々しさも、すべてが表現されていた。なんと早熟で、そして人生の深淵を見つめているような憂いのまなざしであることか。そこには、すべてを受け入れ、決然として立とうとする矜持(自分の能力を信じて抱く誇り)のようなものがあふれていた。デューラーも鏡を使ったはずだが、己の姿が映ったデューラーの鏡は、自分を超えていくような自意識を映し出しているように思える。その姿を描いているからこそ、デューラーの自画像は、これほどに深い感動を与えるのではないだろうか。そこには、運命的なものを受け入れ、それでも自分が何者であり、何をなさなければならないのか、深く自覚した者ならではの姿が映し出されているのだ。

【問1】

 筆者は、美術館で見たデューラーの自画像から「わたしはここにいる、おまえはどこに立っているのだ」という言葉を聞いたように感じました。この言葉は、デューラーのどのような思いと問いかけが込められているのでしょうか。この筆者の解釈に従って、100字以上、200字以内で記しなさい。

〈解説〉

 デューラーの自画像から筆者は、「運命的なものを受け入れ、それでも自分が何者であり、何をなさなければならないのか、深く自覚した」、つまり、「決然として立とうとする矜持のようなもの」を感じたのである。そのときの筆者は、己の出自である在日というものから、そして日本から逃れ、ドイツへ渡り、何の展望も、日本へ帰ってからの保証もなく、亡命のような生活を送っていたのである。在日という逃れられない自分の運命から逃げいていた筆者は、運命を受け入れ、自分が何をなさなければならないのかを突きつけられたのである。
このことを踏まえて、200字近くになるようにまとめよう。

【問2】

 筆者は、デューラーの自画像から受けた影響を説明するにあたって、絵画の様子や出会いの状況など、自身の体験を丁寧に記しています。この筆者ほど強烈な体験ではなくても、人や出来事、本や絵、そのほか映画、演劇、写真、記事など、様々な事物との出会いが、私たちの進路に影響を与えます。あなたは、どのような人や出来事、事物と出会って、大学で特定の分野の知識や技術を学ぼうと考えるようになりましたか。この筆者にならって、そうした体験を紹介しつつ、600字以上、700字以内で説明しなさい。

〈解説〉

 「大学で特定の分野の知識や技術を学ぼうと考えるように」なったきっかけやさまざまな出会い、出来事を述べなさいという、まさしく、志望理由をできるだけ具体的に述べなさいという問いである。また、その学問が本学でできるかをしっかり調べてあるかを試す問いでもある。設問にある通り、筆者ほどの強烈な体験ではなくても、誰もが学問や職業を目指そうと思ったきっかけや出会いはあるはずだ。特殊なエピソードでなくても、ありふれたエピソードで十分なのであるが、目指す学部の中での分野を特定し、そのエピソードによって、その分野のどのような知識や技術に関心を持ったのかをできるだけ具体的に書くようにしよう。その際、自己の将来像、就きたい職業と学問を関わらせるとともに、その学びがどのように社会貢献するかまで述べられるといいだろう。

 

2.岩手県立大学社会福祉学部(2015・推薦入試)

【課題文の内容】出典:『悩む力』(2008・集英社新書)

 私は、いまの世の中で「知性」と呼ばれているものは、すべて「つもり」「そんな気がしているだけ」ではないかと思う。「情報化社会」は極限まで進んでしまっていて、情報が洪水のようにあふれているし、聞いたことがない事柄もネットでちょっと検索すれば、瞬時にだいたいのことはわかってしまう。われわれは、「もう、すべてを知ってしまった」「知らないことは何もない」と、過多な情報量にげっぷが出そうな気分になっているのだ。それと関係するのか、最近の人は「知ってる」「知らない」ということに妙に敏感になっているようだ。「知らない」と答えることを過度に恥と考える。情報の引き出しをよりたくさん持っていることを知性とはき違えているのではないだろうか。もちろん「何でも知っている博学な人」はすばらしいのだが、本来的には、「物知り」「情報通」であることと、「知性」は別物だと思う。情報技術に通じた若い人たちの中に、変に老け込んだイメージの人がいるように思えてならない。ものごとを情熱的に探求していかない、虚心に好奇心を持たない、あるいは、最初から先行きを予想してやめてしまっていると言ってよいだろうか。ものごとの原因と結果のいくつかのパターンを「情報」として蓄えてしまっているゆえではないだろうか。情報の引き出しでも、みずからの血肉になっているような情報が入っているのならよいのだが、服のポケットにたくさんの紙片を詰めこんでいるような知性、これを「知ってるつもり」なだけの知性と言ったら厳しすぎるだろうか。
 人間の知性というのは、本来、学識、教養といった要素に加えて、協調性や道徳観といった要素を併せ持った総合的なものを指すのだろう。しかし、知性はどんどん分割されていき、ある部分ばかりが肥大していったのだ。19世紀末にマックス・ウェーバーは、人間の知性の断片化が加速度的に進んでいく状況を分析探求しようとした。文明が人間を一面的に合理化していく状況を主知化(感情や意志よりも知性・理性を重んじること)の問題としてとらえ、人間の調和ある総合的な知性の獲得の断念が、主知的合理主義の「宿命」だと考えた。ウェーバーは、「われわれは、未開の社会よりはるかに進歩していて、アメリカの先住民などよりははるかに自分の生活を知っていると思っている。しかし、それは間違いで、われわれは電車の乗り方を知っているが、車両がどのようなメカニズムで動いているか知っている人はほとんどいない。しかし、未開の社会の人間は、自分たちの使っている道具を知悉(知り尽くすこと)している。したがって、主知化や合理化は、自分の生活についての知識をふやしてくれるわけではないのだ」と言っている。

【問1】

 下線部「『物知り』『情報通』であることと、『知性』とは別物だと思います。」について、「物知り」「情報通」であることと「知性」とはどのように違うと筆者は考えているか、130字以上150字以内でまとめなさい。

〈解説〉

 本文中にある「人間の知性というのは、本来、学識、教養といった要素に加えて、協調性や道徳観といった要素を併せ持った総合的なものを指すのでしょう。」という部分が筆者の知性についての考え方である。それに対して、「物知り」「情報通」は、「情報の引き出しをよりたくさん持っていることを知性とはき違えている」のであり、最初からものごとの先行きを予想してやめてしまうような人だと述べている。つまり、情報をただ情報として「断片的」にしまっておいたのではダメだということであり、「総合的な知性」ということについてまとめるようにしよう。

【問2】

 情報過多な現代社会において、必要な情報をどのように選び、活用していくべきか、筆者の考えを参考に、800字以上1000字以内で書きなさい。

〈解説〉

 筆者は、「みずからの血肉になっているような情報」「自分の生活についての知識」を増やすことが重要だと述べ、それを断片的な情報としてではなく、人間の調和ある総合的な知性として獲得し、活用すべきだと述べている。この問題は、これからの学びについて考えなさいということであり、問1でまとめた「情報」を「知性」として身につけることを踏まえて述べることが大切である。つまり、これからの大学生活や人生の中で、どのように学ぼうとしているのか、また、どのように情報と向き合い、獲得した情報や身につけた知性をどのように活用していくかを意欲的に書くといいだろう。

 

■読んでおきたい本


『悩む力』 集英社新書 2008

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