鷲田清一氏の2回目です。
『わかりやすいはわかりにくい?―臨床哲学講座』(ちくま新書2010)を取りあげます。
鷲田氏はこの本の中で、「哲学の仕事」について、次のように述べています。
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「生きていくうえでほんとうに大事なことには、たいてい答えがない。たとえば〈わたし〉とはだれかということ、ひとを翻弄する愛と憎しみの理由、そして生きることの意味。答えではなくて、問うことそれじたいのうちに問いの意味のほとんどがある 「見えているのにだれも見ていないものを見えるようにするのが、詩だ」と、詩人の長田弘さんはかつて書いた。この「詩」を「哲学」に置き換えても、同じことが言えよう。それより遡ることおよそ一世紀半、ヘーゲルは『法の哲学』のなかでこう述べていた。「だれでももともとその時代の息子であるが、哲学もまた、その時代を思想のうちにとらえたものである」、と。このように、思想というかたちでとらえられた時代こそ「哲学」なのだとすれば、哲学の仕事は、だれもが仄かに感知しているのにまだよく摑めていない、そういう時代の構造の変化に、概念的な結晶作用を起こさせることにあるはずだ。未知の概念をそこに挿入することで、その変化にある立体的なかたちを付与するものであるはずだ。時代はつねにそういう発見的な言葉を求めている。
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つまり、「哲学」とは、変わりゆく時代のなかで、見えないものやだれもが見ようとしないものを、言葉で見える形にし、それに意味を持たせるということなのです。その上で、鷲田氏は「臨床哲学」を提唱し、取り組んでいます。「臨床哲学」とは、「大学の研究としての哲学ではなく、社会の様々な現場に足を運び、対話の中で人々とともに考える」(著者紹介より)哲学のことです。人々との対話の中で時代を読み取り、自分の「価値の遠近法」(「鷲田清一〈その1〉参照)に基づいて、言葉で表現する、それが鷲田哲学と言ってもいいものだと思います。
さて、目次を見ると、「問いについて問う」「顔は見えない?」「時は流れない?」「待つことなく待つ?」「所有できないものしか所有できない?」「できなくなってはじめてできること?」「憧れつつ憎む?」「わかりやすいはわかりにくい?」等、非常に逆説的な言葉がならんでいます。このことについて鷲田氏は、ニーチェやパスカルの言葉を引用して、「哲学者たちはいつの世にも、最後の最後のところで、ある逆説的な語りを強いられてきた。」と言います。その上で、この本の執筆動機について、「パラドックス(逆説)は、しかし、思考を追いつめた果てに見いだされるものではない。それらはわたしたちの足許にある。足許に穿たれ、足下を走っているのに、わたしたちはそれらを忘れている……。そのような亀裂を、以下、割り切れないという思いにどこかまとわりつかれながら、しかし理に沿って、一つ一つなぞっていきたい。」と述べています。「逆説」とは、「一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を言い表している表現」(『大辞泉』)のことです。わたしたちは、ものごとを自分の視点からしか見ようとしません。しかし、ものごとは一面でとらえられるものではなく、さまざまな面を有しています。例えば、一つの事件でも、被害者から見たものと、加害者から見たものではまったく違ったものに見えるのです。また、わたしたちは、当たり前のことや常識について、疑うことをせず、鵜呑みにしています。そこでは、自分では考えようとしない、いわば思考停止の状態になっています。この本は、自分で考えること、そして、自分の「価値の遠近法」を身につけることの大切さを述べているのです。
■鷲田清一のここを読め
「問うこと」について
高校までの学習は、ほとんどが一つの答えの出るもので、「正解」というものがあります。それゆえ、子どもたちは答えを覚えることに腐心し、それを多く覚えられた子どもが「頭のいい子」と言われるのです。しかし、大学以降の勉学や世の中での課題には、複数の解があったり、答えの出なかったりするものが多く存在します。そこで、2020年から実施される「大学入学共通テスト」では「知識・技能」を重要視しながらも、「思考力・判断力・表現力等」を測る試験に変わろうとしています。それに合わせて、学校現場では、アクティブ・ラーニングが重要視され、答えのない問い、あるいは答えが複数ある問いについて、協働して考える力を育成する授業が展開されています。
鷲田氏は「ひと」について、「ここにいるということに、あるいはこれを自分がなすということに、意味を求める。そうしないと納得して動けない。ひとは意味という病にとり憑かれた生き物とでも言えばいいのだろうか。」と分析しています。「意味を求める」ために、ひとは問いつづけるのです。更に、問い続けることによって見えてくるものについて、鷲田氏は、次のように述べています。
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理解はジグザクに進んでいくほかない。そしてそのうち、すぱっと割り切れる論理ではなく、噛んでも噛んでも噛み切れない論理のほうが真実に近いといった感覚が、知らぬ間に身になじみだす……。けれどももっと大事なのは、わからないけれども、わかっていないということだけはわかっているということではないだろうか。あるいは、わかったつもりになっているが、まだわかっていないことがあるとわかるということ。問題にいっそう近づくとはそういうことだ。もっと言えば、生きるうえでほんとうに大事なことは、わからないものに囲まれたときに、答えがないままにそれにどう正確に処するかの智恵というものだろう。
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「わかっていないということ」がわかったときにどうしたらいいのでしょうか。わかっていないことに対して、今までの経験をもとにしてすぐにわかろうとするのではなく、新たな視点から問い見直してみることが重要なのです。そのために必要なのが、「思考の肺活量」、つまり、「思考の体力」だと鷲田氏は言います。
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ためらいもなければ、含みも曲折もない、そんな単純な物言いが溢れている。思考を停止したまま、不満や不安の強度を単純に高めるだけの、そんな粗雑な物言いが。ワン・フレーズのイメージ語、それがひとびとの意識を攫(さら)っていく。それは、ワン・フレーズで言い切られるものであるがゆえに、屈折もなければ否定による媒介もない。つまりは「極・単」(ごく単純)このうえない。(中略)屈折も否定による媒介もない思考には、他のひとびとの思いや感じ方への過剰な同調はあっても、奥行きはない。まわりから期待されている思考や感覚の型にすっと嵌まらないもの、あるいはそれから外れるものを認めつつ、それらとじっくり摺り合わせをおこなう、そうしたためがない。このことを、思考に肺活量が足りないと言いかえてもよい。では、思考のその肺活量とは何か。それは、いますぐわからないことに、わからないままつきあう思考の体力と言ってもよいし、あるいはすぐに解消されない葛藤の前でその葛藤にさらされ続ける耐性といってもよい。
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例えば、初めてのできごとやものに出会ったときに発する「すごい」という言葉があります。何がどのようなのかを理解する前に、一言のイメージ語で片付けてしまうのです。そうすると、それ以上、考えることはしなくなり、そのものの本質を考えることはありません。何が、どのように、どういう点で「すごい」のかを問うことによって、自分の言葉では表現できないもの、つまり、わからないことがあることを理解することができます。そのわからないこととわからないままつきあうことが必要だと鷲田氏は言っているのです。そのときわからなくても、歳を重ねることによって、わかるようになったり、問い自体の意味が変化したりすることもあるのです。今の世の中には、複雑な要因が絡まり合い、これまでの尺度では測れないような問題が山積しています。そのとき、わかったつもりになって、思考停止に陥り、本質を歪めてしまうことに、鷲田氏は警鐘を鳴らしているのです。「思考の肺活量」とは、「いますぐわからないことに、わからないままつきあう思考の体力といってもよいし、あるいはすぐには解消されない葛藤の前でその葛藤にさらされ続ける耐性と言ってもよい。」と述べていますが、それは、「問いつづけること」と言い換えられるのです。
「問いつづけること」の重要性を述べた文章を引用して、この項を終わります。
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生きてゆくうえでほんとうに大事なことには、たいてい答えがない。たとえば〈わたし〉とはだれかということ、ひとを翻弄する愛と憎しみの理由、そして生きることの意味。これらの問いは、答えではなくて、問うことそれじたいのうちに問いの意味のほとんどがある。これらの問いとは一生、ああでもないこうでもないと格闘するしかない。問い続けることが答えることだと言ってもいいくらいだ。
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■入試での出題例
1.大阪大学教育学部・幼稚園教員養成課程/学校教育教員養成課程・教育科学専攻(2015年度・一般入試/前期)
【課題文の内容】出典: 『わかりやすいはわかりにくい?―臨床哲学講座』(ちくま新書2010)
ひとには言ってもわからないことがある。それを知ったうえでそれでもいっしょにいる。わからなくてもたがいの信頼が揺るがない。性が合わなくてもいい、いやむしろ合わなくて当然なのだ。
「納得」という言葉があるが、どうも事態の理解、事態の解決には尽きないものがあるようだ。離婚の調停で、訴え合いのプロセス、交渉のプロセスが尽くされてはじめて開けてくる途があるそうだ。言葉のぶつけ合いの果てに、相手の心根をうかがうような想像力や関心が芽生えたことを察知したとき、そしてこの修羅場から降りずに、果てしなく苦しいこの時間を共有してくれたことに意識が及んだときに、「納得」ということが起こるというわけだろう。その意味で、「納得」は、事態の解決というよりも、その事態に自分とは違う立場からかかわるひとの関係のあり方をめぐって生まれる心持ちなのだろう。聴くというのも、話を聴くというより、話そうとして話しきれない疼きを聴くということだ。ひとは、聞き手の姿勢を察知してはじめて口を開く。聞いてもらえるだけでいいのであって、理解は起こらなくていいのだ。
他者の理解とは、他者と一つの考えを共有する、あるいは他者と同じ気持ちになることではないということだ。むしろ、苦しい問題が発生しているまさにその場所に居合わせ、そこから逃げないということだ。言葉を果てしなく交わすなかで、同じ気持ちになるどころか、細部において、ますます自分との違いを思い知ることになる。それが他者を理解するということなのである。その差異を思い知らされつつ、それでも相手を理解しようとしてその場に居つづけることによって、ほんとうのコミュニケーションが生まれる。
●設問
次の文章を読み、筆者が傍線部(「他者の理解とは、他者と一つの考えを共有する、あるいは他者と同じ気持ちになることではないということだ。むしろ、苦しい問題が発生しているまさにその場所にともに居合わせ、そこから逃げないということだ。」)のように考えた理由をまとめ、それに対するあなたの考えを述べなさい。(縦書きで600字以内)。
〈解説〉
直後に、「こういう交わりにおいて、言葉を果てしなく交わすなかで、同じ気持ちになるどころか、逆に両者の差異がさまざまの微細な点で際立ってくる。『ああ、このひとはこういうときこんなふうに感じ、こんなふうに惑うのか』と、細部において、ますます自分との違いを思い知ることになる。それが他者を理解するということなのである。そして、その差異を思い知らされつつ、それでも相手をもっと理解しようとしてその場に居つづけること、そこにはじめてほんとうのコミュニケーションが生まれるのではないかと思う。」と傍線部を言い換えていることを参考にするといいだろう。
筆者がこう考える理由は、最初の段落の母親の例にあるように、人間は、それぞれ違った考えや価値観を持っており、他人が自分とは違うということで拒否したり、排除したりするのではなく、言葉を交わす中で、自分との違いを認め、妥協点を見つけようと努力することが必要だからである。また、グローバル社会が進展し、異なる文化、異なる価値観を持った人と一緒に暮らしたり、仕事をしたりすることが必要になってきており、彼らに対しても、きちんと自分の主張を伝えることができ、文化的な背景の違う人の意見も、その背景を理解し、時間をかけて説得したり納得したりして、妥協点を見いだすことができることが、求められているからなのである。
このような場合、筆者の意見に肯定的な立場で書くようにし、前段でまとめた筆者がそう考える理由に対して、どのような点で賛成できるのかを述べるようにしよう。600字以内とあるので、理由を150字~200字程度にまとめ、残りを自分の考えに当てるような目安で書くとよいだろう。
■読んでおきたい本
『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』ちくま新書、2010
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