内田樹氏の2回目です。
内田氏の論考の中から、入試に頻出する「教育論」と「メディア論」について、考察していきます。
最初に、「教育論」です。『下流志向』『先生はえらい』『街場の教育論』等、多くの著作が入試に頻出しています。
内田氏の教育論の根本的な考え方は、「市場原理が学校に入り込んできて、教育活動が商取引の用語で語られるようになって学力の全面的な崩壊が起きました」(『内田樹による内田樹』より)というものです。学校への市場原理の導入というのは、「一言で言えば、学校で教えられる知識や技術や、そこで得られる資格や免状は『商品』であって、学習努力がそのために支払う『貨幣』であるという考え方で教育課程の全体を読み換えること」(『内田樹による内田樹』より)ということです。現在、子どもたちは、いかに少ない学習努力で、価値ある商品(卒業証書や技術)を手に入れるかを最優先するようになっています。その原因は、急速に進むグローバル化にあります。グローバリズムというのは、基本的には自由貿易や市場主義経済を全世界的に広げようという考えのことです。市場原理の下で、「効率性」という言葉が幅をきかせ、企業でも、またあらゆる組織で効率性、費用対効果を優先しています。それが、学校も例外ではないということです。
内田氏によると、経済学者の宇沢弘文氏は、人間が集団として生きていくうえで不可欠なものを「社会的共通資本」と呼んでおり、第一に自然環境、第二に社会的インフラストラクチャー、第三に制度資本のことを指すのだそうです。「制度資本」についての内田氏の考えをまとめると、次のようになります。
「制度資本」には医療、教育、司法、行政、金融などが相当しますが、いずれも人間の弱さ、脆さ、非力さ、無能力さを前提に制度化されているものであり、人間という生き物を相手にしているため、変化を好まないという特質を持っています。特に教育については、変わる必要がありますが、そのスピードはあくまでもゆっくりだという「定常的・惰性的」であることが重要です。にもかかわらず、「社会の変化に合わせて、そして市場のニーズに合わせて、急いで変われ」と、政治主導による制度改革が続いているのです。
内田氏は、長年、合気道を修めている武道家でもあります。「武道の修行では、事前には修行の意味が開示されません。習う前の段階では、これから自分が何を学ぶことになるのか、それを語る『語彙』そのものがない。だから、やるしかない。修行を通じて自得する。修行することで、自分が何を習得したかを事後的・回顧的に語れる。」(「東大新聞blog」2016.4.19)と言っています。つまり、達成目標も、習うことの内容も、その価値もわからないけれど、なにかに惹きつけられて学ぶと、そのうちに、学ぶ前には想像もしなかった自分になっているということです。修行だけでなく、学ぶということも本来はそういうものだったのです。しかし、今の子どもたちは、学歴や資格などの実用的な「成果」を、学習努力という「対価」で支払っているという商取引の枠組みでしかとらえられなくなっています。つまり、あらゆる人間活動を投資と回収の計算で考える習慣を深く身につけているうちに、「何のために学ぶのか、何のために働くのか、何のために生きているのか」までわからなくなっているのです。そのため、内田氏は「修行」のような学びのプロセスがあるのだということを知る必要性を訴えています。訳もわからず学ぶこと、その一見無駄で、余計なことに思えることの中に、大事なものを見つける近道があり、さらには真理さえもその中にあるのかもしれません。
「市場原理が学校に入り込んだために、学力の全面的な崩壊が起きた」という内田氏の考え方について、どういう点が納得できるのか、または、どういう点は納得できないのかを、自分自身のこれまでの学びの経験から、具体的に説明できるようにしておきましょう。
次に、「メディア論」についてです。『街場のメディア論』をはじめ、さまざまな論考の中で「メディア」について述べています。ちなみに、この本は、神戸女学院大学の授業をもとに、編集者がテープを起こし、ある程度まとめたものに、内田氏が加筆して本に仕立てるという製作システムをとっています。
内田氏は、メディアについて、次のように述べています。
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メディアはその本性上、「社会が変化するときに発生する情報需要」を飯の種にしています。「今日は昨日と同じで、たいしたことは何もありませんでした」というのは、僕たち生活者からすれば、ありがたいことなのですが、それではメディアは生きていけません。メディアは「何かたいへんなことが起きているらしいのだが、何が起きているかよくわからない」という情報の欠如状態で飯を食べています。だから、あらゆるところで劇的な変化が起きることをつねに待ち望んでいる。思うように変化が起きない場合は、自分で手を突っ込んで変化を起こさせさえする。
ですから、メディアは本性的に「機動性の高いもの」を愛します。早く動くもの、短時間のうちにかたちを変えるもの、変転きわまりないもの、それがメディアにとっては「価値あるもの」です。(『内田樹による内田樹』より)
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メディアは、その構造上、「変化の是非」を問うことができません。なぜなら、メディアにとって、変化は変化であるだけですでに「善」だからです。しかし、前述したように、医療、教育、司法、行政、金融などの「制度資本」は、変化を好まないという特質を持っています。にもかかわらず、変化を嫌い、定常的に反復される制度や文物があると、メディアは進んで介入し、「変化しろ」と急かすのです。そうした中で、「メディアで働く人たちは、自分たちが『変化は善である』という定型的信憑に縛り付けられて、そこから身動きできなくなっているという事実に気づいていない」(blog「内田樹の研究室」2016.3.13より)という状況になっているのです。このような状態が続くと、既成のメディアは深刻な危機に遭遇すると内田氏は警鐘を鳴らしています。世の中には、「変化してよいもの、変化すべきもの」と「変化しないほうがよいもの、変えてはならないもの」があります。それを識別することは非常に難しいことですが、しっかり見極める目を持つ必要があります。現在、情報が氾濫し、ニュースは新聞からネットまで、自分で集める時代になっています。一方的に与えられていた時代から、自分の嗅覚で選べる時代になりました。しかし、ネットでニュースを読む人は、自分の読みたい記事だけを選択するようになり、自分の世界をどんどん狭めています。そのため、善悪や物事を判断する物差しも狭いものになっています。これは、養老孟司氏の『バカの壁』にも通じる考えです。しっかりとした見極める目を持つためには、自分の殻に閉じこって、思考停止になることなく、より広い世界を知るために行動することが必要になるのです。
今回取り上げられませんでしたが、「日本及び日本人論」「格差」「知性」「グローバリズム」「反知性主義」等、内田氏にはさまざまなジャンルの論考があります。特に、「反知性主義」についてはこれから入試に頻出すると思われます。その対極にある「知性」と併せて、自分の考えをまとめておく必要を感じます。
■入試での出題例
1.山梨大学・教育人間科学部・学校教育課程・言語教育コース(2015年度・推薦)
【課題文の内容】出典:『下流志向』
今の子どもたちは、学びの場に立たされたとき、最初の質問として、「学ぶことは何の役に立つのか?」と訊いてくる。非常にシビアで、ある意味ビジネスライクな質問である。以前の子どもはこのようなラディカルな問いかけをすることはなかったし、そのような問いがあることさえ思いつきもしなかった。しかし、その問いには一理ある。40分なり50分なり、席に座り、先生の話を黙って聞き、ノートを取るという「苦役」を、子どもたちは教師に対して支払いをしているというふうにとらえている。
●設問
文章を読んで、筆者の問題提起を踏まえ、学校で学ぶことの意義について、あなたの考えを述べなさい。解答は600字~800字で、別紙の解答用紙に記入しなさい。
〈解説〉
「筆者の問題提起を踏まえ」とあるので、この文章で筆者はどのような問題を提起しているのかをまずしっかりと押さえる必要がある。
「支払い」という言葉に傍点がふられている(原文自体に)ので、要点は、「学ぶことは何の役に立つのか」というビジネスライクな質問をする子どもたちは、教師に対して苦役という支払いをしているというところにある。つまり、学校で教えられる知識等は「商品」であり、学習努力はそのために払う「対価」であるという考えであり、自分が「苦役」という形で払ったお金に対して、どのようなサービスが「等価交換」されるかを子どもたちは問うているのである。
このような筆者の考えに対して、これまでの自分の学びの経験やこのような子どもたちが増えてきた社会的背景を考察したうえで、賛成か反対かという自分の立場を明らかにし、本来学ぶこととはどういうことか、学校で学ぶ意義は何かを述べる必要がある。
2.新潟県立大学・国際地域学部・国際地域学科(2014年度・推薦)
【課題文の内容】出典:『知に働けば蔵が建つ』
当今の病院では、患者がどの科を受診しているかを他の患者に知らせないために、院内放送での呼び出しに個人情報を用いず「受付番号」を用いているそうだ。しかし、共同体の中における一人の立ち位置についての情報を非公開にすることから得られる利益はそれによって逸失される利益よりも大きいと断言できるのだろうか。今進められている個人情報保護は、私たちが属している共同体の他のメンバーから私の個人情報を保護するということにむしろ力点が置かれている。それは、共同体の他のメンバーは私の潜在的な「敵」だということ、私の個人情報を知ればそれを悪用する可能性が高い人間たちと私たちは共同体を形成しているのだということを含意している。個人と共同体を潜在的な敵対関係としてとらえる考え方は、中間的な共同体が解体されたあと、個人と社会が緩衝帯抜きでダイレクトに向き合う「リスク社会」に固有のものであるので、このような考え方はきわめて最近になって定着したものである。
ほんらい私たちは個人である前に大小さまざまな規模の共生体の一員である。例えば、家族の一員である前に個人であるような人間はこの世に存在しない。まずアモルファスな共生体があり、個人はその共生体内部で果たしている分化的機能(家族内部的地位、性別、年齢、能力、見識などなど)に応じて、共生体内部の特異点として記号的に析出されてゆくのである。つまり、個人は共同体の「結節点」として構築されるものである。それ故、個人情報というのは個人が「所有する」ものではなく、むしろその人を取り囲む共同体メンバーがその人に「贈与する」ものである。「私の情報は私のものだ」と言いつのっている人間は、いずれ共有されない情報には情報としての価値はないということ気づくことになる。
●設問1
筆者は個人情報とは、いかなるものであると主張しているか。本文の内容から読み取って要約しなさい。字数は、70字以上100字以内とする。
〈解説〉
本文中にある、「個人情報というのは個人が『所有するもの』ではなく、むしろその人を取り囲む共同体メンバーがその人に『贈与する』ものである。」という部分が個人情報についいて述べた部分であり、「共有されない情報には情報としての価値はない」という部分等を肉付けして100字近くになるように要約する。
●設問2
傍線部の、個人情報を非公開にすることから得られる利益の方が、それによって失われる利益よりも大きいとは限らない、という筆者の見解に、あなたは同意するか、それとも同意しないか。また、それはなぜか。まず筆者の見解を支えている議論の要点をまとめたうえで、あなたの考えを論じなさい。字数は、600字以上800字以内とする。
〈解説〉
筆者の見解を支えている議論の要点は、「個人情報保護は、現に私たちが属している共同体の他のメンバーから私の個人情報を保護するということにむしろ力点が置かれている。それは、共同体の他のメンバーは私の潜在的な『敵』だということ、私の個人情報を知ればそれを悪用する可能性が高い人間たちと私たちは共同体を形成しているのだということを含意している。」というところにある。
これを踏まえて、まず個人情報保護が進んできた社会的背景を考える。次に、自分はどのような場合に、どのような情報を非公開にしているかを考えたうえで、情報を非公開にすることから得られる利益(メリット)、失われる利益(デメリット)を考える。そのうえで、自分はどちらの立場をとるか、根拠を示しながら説明する。
このような設問の場合、筆者と同じ立場をとることが多い。そのとき、筆者と同じような例示や理由にならないように注意するとともに、どのような反論が考えられるかを考慮する必要がある。また、筆者の意見に対して反論を述べる場合は、読み手が納得する根拠(理由、具体例)を挙げて説明することを心がけよう。
600字以上800字以内とあるが、できるだけ最後の行まで書き、自分の意欲を示す必要がある。
■読んでおきたい本
『下流志向』学ばない子供たち働かない若者たち』講談社文庫 、2009
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