第4回 平田オリザ

 今回取り上げるのは、平田オリザ氏です。

 今、生徒たちにこれから生きていく上で必要な能力を聞くと、ほとんどの者がコミュニケーション能力を上げます。そして、自分にはそのコミュニケーション能力がまだ身についていないと感じています。また、大学の先生や企業の採用担当者も、コミュニケーション能力が身についた人材を求めています。それでは、コミュニケーション能力とはどのような能力を言うのでしょうか。また、本当に若者にはコミュニケーション能力がないのでしょうか。

■著者紹介

 平田氏は、劇作家であり、演出家です。日本人の生活を起点に演劇を見直し、自然の会話とやりとりで進行していく「現代口語演劇理論」を提唱しました。桜美林大学助教授として演劇を教える傍ら、中学校の国語の教科書の作成に携わり、その後、鷲田清一氏に招聘され、大阪大学コミュニケーションデザインセンター教授に就任しました。全国の小中学校での演劇に基づく授業を行い、そこで感じたコミュニケーション能力や日本語、それを身につけるための国語教育について、さまざまな発言があります。

■なぜ、入試に出るのか?

 2012年に出版された『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書)は、平田氏のコミュニケーションに対する考え方をまとめたもので、入試小論文に頻出しています。この中での論考を中心に、コミュニケーション能力等について解説していきたいと思います。

1.コミュニケーションにおける「ダブルバインド」

 「ダブルバインド」とは、矛盾した二つの能力を同時に要求される状態のことです。平田氏は、「企業が新入社員に要求するコミュニケーション能力は、『グローバル・コミュニケーション・スキル』=『異文化理解能力』」(『わかりあえないことから』)だと言います。「異文化理解能力」とは、「異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も、その背景(コンテクスト)を理解し、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見いだすことができる。そして、そのような能力を以て、グローバルな経済環境でも、存分に力を発揮できる」(『わかりあえないことから』)ことです。しかし、その一方で、「日本企業の中で求められているもう一つの能力とは、『上司の意図を察して機敏に行動する』『会議の空気を読んで反対意見は言わない』『輪を乱さない』といった日本社会における従来型のコミュニケーション能力」なのです。このように「異文化理解能力」と日本型の「同調圧力」という矛盾した二つの能力が要求されるのです。

2.「社交性」と「対話」の重要性

 平田氏は、「日本人に要求されているコミュニケーション能力の質が、いま、大きく変わりつつあるのだと思う。いままでは、遠くで誰かが決めていることを何となく理解する能力、空気を読むといった能力、あるいは集団論でいえば、『心を一つに』『一致団結』といった『価値観を一つにする方向のコミュニケーション能力』が求められてきた。しかし、もう日本人はバラバラなのだ。さらに、日本のこの狭い国土に住むのは、決して日本文化を前提とした人びとだけではない。だから、この新しい時代には、『バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力』が求められている。私はこれを、『協調性から社交性へ』と呼んできた。」(『わかりあえないことから』)と言います。そして、その「社交性」を身につけるために、平田氏は、「対話」の技術の重要性を説いています。「会話」と「対話」の違いについて、次のように述べています。

『大字源』(小学館)より

会話=複数の人が互いに話すこと。また、その話。

対話=向かい合って話し合うこと。また、その話。

平田氏の定義

会話=価値観や生活習慣なども近い親しい人同士のおしゃべり。

対話=あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。 (『わかりあえないことから』)

 「対話」をこう定義したうえで、日本語には、「対話」という概念が薄いと指摘します。それは、「日本社会は、ほぼ等質の価値観や生活習慣を持った者同士の集合体=ムラ社会を基本として構成され、独自の文化を培ってきた」(『わかりあえないことから』)からなのです。つまり、日本では分かり合ったり察し合ったりりするコミュニケーションを中心に考える文化を有してきました。そこで、「対話」の重要性、必要性を訴え、対話を前提とする演劇を教材として用いた授業を、全国の小中学校で展開しています。グローバル化が進み、子どもたちは否応なしに国際化する社会を生きていかなければなりません。異なる文化や価値観を持った人に対して、粘り強く説明や説得をし、時には妥協や譲歩をしながら、お互いが納得して事に当たる必要があるのです。「異なる価値観と出くわしたときに、物怖じせず、卑屈にも尊大にもならず、粘り強く共有する部分を見つけ出すこと」(『わかりあえないことから』)という「対話的な精神」を身につける必要があると平田氏は言っています。

3.「冗長率」を操作するということ

 「冗長率」とは、「一つの段落、一つの文章に、どれくらい意味伝達とは関係のない無駄な言葉が含まれているかを、数値で表したもの」です。対話というのは、「異なる価値観を摺り合わせていく行為だから、最初はどうしても当たり障りのないところから入っていく」(『わかりあえないことから』)ために、「冗長率」が最も高くなるとも言います。しかし、「日本の国語教育は、この冗長率について、低くする方向だけを教えてきたのではなかったか。『きちんと喋れ』『論理的に喋れ』『無駄なことを言うな』……だが、本当に必要な言語運用能力とは、冗長率を低くすることではなく、それを操作する力なのではないか」と国語教育の課題を指摘しています。今、教師も生徒も、効率を重視します。そこでは、無駄は排除され、スピードが重視されます。寄り道や回り道は無駄なことのように一見、思えます。しかし、その無駄なことの中から、意外と物事の真実が見えてくることがあるのです。コミュニケーションも同じようであり、無駄な言葉を多く含む人、つまり「冗長率を時と場合によって操作している人こそが、コミュニケーション能力が高いとされる」(『わかりあえないことから』)のです。

 最初に述べたように、誰もがコミュニケーション能力の必要性を感じています。それは、人間が一人では生きていけない社会的動物であり、さまざまな人と関わる中で、相手の思いを知り、自分の思いや考えを表現しなければならないからなのです。今の若者には、SNSの使い方等を見ればわかるとおり、コミュニケーション能力がないとは思えません。ただ、非常に狭い範囲で、限られた人にしか通じないコミュニケーション・ツールを用いているために、年齢の異なる相手や、生活環境の違う相手とのコミュニケーションには不安を感じているのです。コミュニケーションの手段として、さまざまな表現方法がありますが、最終的には言葉にしなければ自分の思いが伝わらないと考えているのです。言葉を習得し、文章によるコミュニケーション能力が、自分にはまだ身についていないと若者は考えています。

 更に、今の若者は、自分が傷つくこと、相手を傷つけることを極度に嫌う傾向があります。それ故、異なる考え方を持った集団の中で、自分の意見を述べることを求められるのにもかかわらず、空気を読んで―今はやりの言葉で言えば「忖度」をして、反対意見を言えなかったという経験をしていない者はいないと思います。「波風を立てない」という日本型の考え方をどのようにすれば変えることができるのか、また、そもそも変える必要があるのかについて、自分の考えをまとめておきしょう。そして、変える必要があると考えるのであれば、平田氏の考えを参照しながら、どのように変えるのか、そのためにはどのような力を身につければいいのかを、これまでの自身の経験から考えておきましょう。

 最後に、平田氏の若者たちへの思いを引用して、本稿を閉じたいと思います。

 「否が応でも国際社会を生きていかなければならない日本の子どもたち、若者たちには、察し合う・わかりあう日本文化に対する誇りを失わせないままで、少しずつでも、他者に対して言葉で説明する能力を身につけさせてあげたいと思う。」(『わかりあえないことから』)


■入試での出題例

1.法政大学・キャリアデザイン学部・キャリアデザイン学科(2016年度・推薦)

【課題文の内容】出典:『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』

 PISA調査(OECDが行う学力調査)で、毎回上位に名を連ねるフィンランドの教育方法は、インプット=感じ方は、人それぞれでいいが、アウトプットは一定時間内に何らかのものを出しなさいというものだ。感じ方は、内面の自由、良心の自由に関わることなので、強制できないし、教育の場でそれを一律にしてはいけない。しかし、多文化共生社会では、バラバラな個性を持った人間が全員で社会を構成していかなければならないので、一定の合意形成が必要なのだ。これはインプットを狭く強制する一方で、アウトプットは自由だとする現行の日本の国語教育と正反対のものだ。だが、現実社会では、どの企業も多様な意見や提案を必要とする一方で、アウトプットがバラバラでいいという会社があったら、すぐにつぶれてしまう。

 日本では、最終的な結論を言った子が誉められるが、フィンランドの教育では、いい意見を言った子どもよりも、さまざまな意見をうまくまとめた子が誉められる。OECDがPISA調査を通じて求めている能力は、こういった文化を越えた調整能力なのだ。これを一般に「グローバル・コミュニケーション・スキル(異文化理解能力)」と呼び、その中で最も重視されるのが、集団における「合意形成能力」あるいは「人間関係形成能力」である。OECDの基本理念は、多文化共生にある。多文化共生とは、企業、学校、国家など、どんな組織も、異なる文化、価値観、宗教を持った人々がいた方が、最初は大変だが、最終的には高いパフォーマンスを示すという考え方である。

 ほぼ単一の文化や言語を持つ日本は、成長型の社会では強い力を発揮したが、成熟型の社会では、多様性こそが力となる。それは、多様性こそが持続可能な社会を約束するからである。とすれば、これから国際社会で生きていかなければならない子どもたちには、「最初はちょっと大変」だけれど、その「大変さ」を克服する力をつけさせなければならない。みんなちがって、たいへんだ。しかし、この「たいへんさ」から、目を背けてはならない。

●第一問

 筆者は下線部(2)「しかし、この『たいへんさ』から、目を背けてはならない。」のように主張しているが、何がたいへんであるのか、また「たいへん」であるにもかかわらず、「目を背けてはならない」のはなぜか。本文に即しながら、筆者の考えを200字以内でまとめなさい。(縦書き。句読点も文字数に加える)

〈解説〉

 「本文に即して」とあるので、本文要約と考えてよい。丹念に読めば、それほど難易度の高い問題ではない。前半部分は「何がたいへんであるのか」とあるので、「たいへんさ」の内容を読み取る。後半部分、「~のはなぜか」とあるので、「目を背けてはならない理由」を文中から読み取る。

 「たいへんなこと」とは、多文化共生社会では、バラバラな個性を持った人間が、社会を構成しており、その中で、それぞれの感じ方を尊重しつつ、多様な意見をまとめ、共通の方向性を持つことである。

 「目を背けてはならない」理由は、成熟型の社会では、多様性こそが力となるからである。つまり、異なる文化、価値観、異なる宗教を持った人々が混在していた方が、最初はちょっと面倒くさくて大変だけれども、最終的には高いパフォーマンスを示すということである。

このような点を踏まえて、本文を要約しよう。

●第二問

 下線部(1)「成熟型の社会では、多様性こそが力となる。」の筆者の主張と照らし合わせた場合、現代の日本社会はどのような課題を抱えているか。具体的な課題を一つ取り上げて、400字以内で論じなさい。(縦書き。句読点も文字数に加える)

〈解説〉

 現在の日本では、課題があるということは、現代の日本社会は「多様性が力となっていない」ということである。

 第一問で下線部(2)をまず考えさせたということは、それを踏まえなさいということであろう。現代の日本社会では、バラバラな個性を持った人間それぞれの感じ方を尊重しながら、意見をまとめ調整して、物事に取り組む必要がある。それは困難さを伴うことであり、それ故多様性を力としきれていない現状がある。そのような具体例を一つ上げて、自分の意見を述べることが要求されている。そこから浮かぶ課題とその原因や背景を説明し、どうすれば大変さを克服する力をつけさせられるかということまで論じるとよいだろう。400字という字数制限があるので、具体例はできるだけ簡略にしよう。

2.大分大学・教育福祉科学部・人間福祉科学課程・心理健康福祉コース(2014年度・推薦)

【課題文の内容】出典:『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』

 日本人に要求されるコミュニケーション能力の質が大きく変わりつつある。いままでは、「価値観を一つにする方向のコミュニケーション能力」が求められてきた。しかし、狭い日本に住むのが、日本文化を前提とした人びとだけではなくなった新しい時代には、「バラバラな人間が価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力」が求められているのだ。著者はこれを、「協調性から社交性へ」と呼んできた。著者自身は協調性がないと自覚しているが、演劇人は集団で行う芸術家であり、「社交性」はある。しかし、社交性という概念は、これまで「上辺だけのつきあい」「表面上の交際」といったマイナスのイメージがつきまとい、私たちは、「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」と教え育てられてきた。

 しかし、もう日本人は心からわかりあえないのだ。心からわかりあえることを前提としてコミュニケーションというものを考えるのではなく、「いやいや人間はわかりあえない。でもわかりあえない人間同士が、どうにかして共有できる部分を見つけて、それを広げていくことならできることかもしれない」と考える必要がある。

 「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」という言葉には、心からわかりあう可能性のない人びとをあらかじめ排除するシマ国・ムラ社会の論理が働いている。価値観や文化的な背景の違う人びととも、どうにかして共有できる部分を見つけて、最悪の事態を回避するのが外交であり国際関係だ。国際化する社会を生きていかなければならない日本の子どもたちには、協調性がなくていいとは言わないが、これからの教育が授けていかなければならないのは、この「社会性」の方である。

●問1

 筆者のいう「協調性から社交性へ」とはどのような変化か、300字以内(句読点を含む)で説明しなさい。

〈解説〉

 筆者がこう考えるのは、日本は、いままでは、シマ国・ムラ社会の論理が働いている閉じた社会であり、ほぼ単一の言葉を共有し、それによって同調し合うという協調性が重要視されてきたが、国際化の進展とともに、「多文化共生社会」となり、そのため、それぞれの持つ異なった文化的背景をすり合わせることのできる社会への移行が求められているからである。こういう社会では、価値観を一つにするためのコミュニケーション能力を必要とするのではなく、価値観がバラバラで、わかりあえない人間同士が、社交性を発揮し、共有できる部分を見つけて、それを広げていくことが必要である。そのような変化について、本文の内容を読み取ろう。

●問2

 下線部「これからの教育が子どもたちに授けていかなければならないのは、この『社交性』の方ではないか。」の著者の意見に対するあなたの考えを500字以内(句読点を含む)で述べなさい。

〈解説〉

 問1で「協調性から社交性への変化」を解答した内容を踏まえて、社交性が必要だとする著者の考えに対して、賛成か反対かの立場をまず明らかにして、その理由について具体例を交えながら論述することが求められている。

 そのためには、問1でまとめた、社交性とはどのようなものかを押さえたうえで、自分自身がコミュニケーションやコミュニケーション能力をどのようにとらえているかを考えてみよう。そして、これまでコミュニケーション能力を身につけるためにどのようにしてきたのか、また現在どうしているのかを考えよう。そのうえで、これまでの協調性を重視するコミュケーションで十分だと考えるのか(反対の立場)、著者の言うように社交性が必要だと考えるのか(賛成の立場)をまず明らかにしよう。反対の立場で述べるときにも、「筆者は○○といっているが、…」と必ず、本文の内容を踏まえていることを示すことが必要である。

■読んでおきたい本

『わかりあえないことから』講談社現代新書、2012

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